「日本人のアイデンティティー」日蓮宗いきいきマガジン「あんのん」寄稿文

 これは亡くなった私の父から聞いた話しである。父は戦後の日本復興の為に国策の基本を策定した吉田茂元首相の主治医をしていた。1947年に第一次吉田内閣を組閣していたある日、吉田が憔悴しきった様子で当時白金にあった外務大臣公邸に帰ってきた。父が吉田に何があったのかを尋ねると、「本来ならば俺はここで腹を切らなければならないが、日本がこのような状況に置かれている時にそれもできない」という大変に思いつめた返事が返ってきた。それは、宮中にて陛下より「新憲法に基づく民主主義の下での天皇のあり方は如何に」との御下問に対し陛下に納得していただける返答をすることが出来なかったからであった。

 その際に、父は戦前においても民主主義と天皇のあり方につき論じた人物がいたことを紹介した。それは、明治初頭に「帝室論」を執筆した福沢諭吉であった。当然に吉田はその論文を読むことを希望した。所が、「帝室論」が収録されている福沢全集は千葉県柏市に疎開していた我が家にあったのである。急いでいた吉田は総理大臣の専用車を手配して父に直ちに柏の家に戻り福沢全集を取ってくるように命じた。

 福沢全集に収録された「帝室論」を受け取ると、吉田は書斎にこもり真剣にこれを読み思考を重ねた。翌朝父が書斎に呼ばれると、吉田は睡眠をとらずに一晩中考えていた様子であったという。そして、組閣にあたり文部大臣には慶応義塾出身者をあてたいが、塾長を務め福沢本人の薫陶を受けた小泉信三氏に打診して欲しいとのことであった。教育の場を通じて民主主義の時代にあった皇室のあり方を幅広く国民に理解せしむることを期待しての人事である。

 父が吉田のメッセンジャーとして港区広尾町にあった小泉邸を訪問すると、当時戦災にあって体調をくずしていた小泉氏は丹前姿で玄関先に現れ、「自分はこの様な状態でありとても総理の要請に応えることはできない。総理によろしく伝えてほしい」とのことであった。

 そこで吉田は次に同じく福沢門下で経済史の泰斗である高橋誠一郎氏に文部大臣就任を依頼した。高橋氏は固辞したものの最後に吉田の説得を受け入れ文部大臣となる。高橋氏は教育基本法及び学校教育法を制定し六・三・三制の今日の教育制度を導入する文部大臣となるが、民主主義下における天皇のあり方につきいかなる配慮をしたかは私の知るところではない。しかし、この子供のころに父から聞いた戦後間もない占領下における文部大臣の人事をめぐる話は、司馬遼太郎の言う「日本の国のかたち」に直結する話しであることに間違いはない。

 戦前に教育基本法に相当するものは教育勅語であったから旧帝国議会にて教育勅語を無効とする決議をした上で、昭和22年3月22日に教育基本法は成立している。これは、旧帝国憲法下における最後の法律審議であった。着目すべきは国民教育の基本が何故に天皇の言葉である「勅語」であったかということである。

 近代国家としての国家建設に取り組んでいた明治維新の指導者にとり、当時の日本人に自らを日本国民として自覚を持たしめることは国づくりの基本的課題であった。彼らの考えたことは、我が国の歴史の中で育まれた天皇の権威をもって、徳川幕藩体制の下で国民意識をもっていなかった当時の日本人に日本国民としての自覚をもたらしめることであった。従って、国民教育の基本は「勅語」となり、天皇に対する崇尊の念を通じて日本国の国民であることを自覚せしむる論理が形成されたのである。そこでは、天皇に対する忠誠と両親に対する孝行やお年寄りを大切にすることなど日常生活の中で守られるべき道徳心が同時に語られ、両者は分かちがたく結ばれていた。

 戦後が歴史となった今日において、先に述べた昭和天皇による「民主主義下における天皇のあり方や如何に」という我が国の本質にかかわる御下問の答えは出来たのであろうか。民主主義という価値を身に付けた戦後の我が国は、人、物、カネ、情報が国境を越えて移動するグローバライゼーションの時代に直面し、この世界のダイナミズムに適合しつつ、如何にして日本国の国民としての自覚を持ち続けることが出来るのであろうか。地方自治における外国人参政権の問題が極めて安易に政治的思惑で取り上げられる現状に鑑み、たまたま吉田茂の主治医であった父より聞いた話しをもちいて私の所見としたい。

武見敬三